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「地球交響曲(ガイアシンフォニー) 第六番」上映会 12月

更新日:2023年11月26日

全ての存在は響き合っている


映画『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』とは、イギリスの生物物理学者ジェームズ・ラブロック博士の唱えるガイア理論、「地球はそれ自体がひとつの生命体である」という考え方に勇気づけられ、龍村仁監督によって制作されたオムニバスのドキュメンタリー映画シリーズです。

美しい映像と音楽、珠玉のことばの数々によって織り成されるドキュメンタリー映画『地球交響曲』は、環境問題や人間の精神性に深い関心を寄せる人たちのバイブル的存在となっており、1992年公開の「地球交響曲第一番」から2021年公開の最新作「第九番」まで、草の根の自主上映を中心とした上映活動だけで、これまでに延べ、250万人に上る観客を動員、その数は今なおとどまることなく、かつてないロングランヒット作となっています。

小さな上映会 in 西宮では、12月に『地球交響曲(ガイアシンフォニー)第六番』を上映します。
 

上映作品:
 『地球交響曲 第六番 -GAIA SYMPHONY No.6-』

上映日時:  ① 11/26(日) 18:15~20:30  ② 12/6 (水) 13:00~15:15  ③ 12/10(日) 15:00~17:15
 ④ 12/20(水) 13:00~15:15
 ⑤ 12/24(日) 15:00~17:15

チケット代金(当日現金にてお支払いください):  a) 映画+上映後のお茶付きシェア会 1,500円  b) 映画のみ 1,300円

会場:
studio awai(あんのん舘2F・西宮市田中町4-9)



お申し込み方法:
 下記のフォームへご記入ください。  https://www.unknownkan.com/events/gaia-symphony-no6
 


深夜、フト目が覚めて、私のベッドの傍らに眠る三歳になる娘の寝顔を見た。 こんな深夜に突然目覚めるのも、多分この私が六七歳という老年期に入ったからだろう。 それにしても、なんという生命(いのち)の不思議だろうか。 私の手の中にスッポリと入ってしまいそうな愛くるしい小さな顔、小さな目、小さな鼻と口。 微かな寝息が聴えてくる。 私は、人差指を立ててソット娘の小さな手に添えてみた。 娘は、眠ったままキュッキュッと2度試すように手を開いたり閉じたりした後、そのか細い5本の指で、しっかりと私の節くれ立った人差指を握り締めた。 私達が住むこの宇宙は、およそ百四十億年前、時間も空間も物質もない無の虚空から、突如起った大爆発、ビッグバンに依ってこの世に生み出された、と現代の物理学は説明している。 この大爆発から数千億を超える銀河が生れ、その銀河のひとつひとつに一千億から四千億もの星々が生れ、そんな星のひとつ太陽の周りに地球が生れ、その地球の上に初めての生命(いのち)が誕生し、その生命が三十八億年の進化を遂げて、今ここにこの小さなひとつの生命が、私の節くれ立った指先をしっかりと握り締めて眠っている。

完璧なまでに美しく、美しいが故にあまりにも儚(はかな)いひとつの生命。この生命が、自らの意志と力で母なる星地球(ガイア)の上にしっかりと立ち、時空を超えた全ての生命との繋がりの中で、人間として生れた使命を全うする姿を、この私が、今生の身体を通して見届ける保障はなにひとつない。しかし、だからこそ私達には、今、ここで果さなければならない責務がある。

私達は、百四十億年前の宇宙の始まりの時を想うことができるほどの“想像力”を与えられた。しかし、その“想像力”を、自分だけの利便と安楽のためだけに使い、自らの生命が、三十八億年の、いや、百四十億年の全ての存在との繋がりの中で“生かされている”というまぎれもない事実を忘れ去ってしまった。その結果が、今起り始めている大災害の予兆であり、悲惨な人心の荒廃である。母なる星地球は、自らを蝕む病原菌を駆逐する為に、早晩、最大限の自己治癒力を発揮するだろう。それは、二十一世紀に生れ育つ子供達が、未曾有の苦難の道を歩まなければならないことを意味する。

私達人間が、今、ここで果さなければならない責務とは、自分の生命が、自分以外の全ての存在との繋がりの中で“生かされている”という事実を思い出すことだ。私達ひとりひとりが、日々の全ての営みの中で、この“想像力”を取り戻すことだ。

私は、1989年、この映画シリーズをスタートするに当って、タイトルを「地球(ガイア)交響曲(シンフォニー)」と定め、「地球の声が聴えますか?」という呼びかけから始めた。 巨大な生命体であるこの地球のシステムは、今、この一瞬にもライブ演奏されている「交響曲」のようなものだ、と直感したからだった。

「交響曲」は、その曲に依って、演奏者に依って、楽器に依って、聴衆に依って、一回一回全て違った”音楽”としてこの世に生み出される。しかし、その違いにもかかわらず、全ての「交響曲」がめざす唯ひとつの目的は、その場に、その時にしか生れない、美しく壮大な調和(ハーモニー)の “音楽” を創造することだ。 私は、この宇宙の成り立ちも、母なる星地球の生命システムも、生態系も、人間の体や心の仕組みも、社会や文化の構造も、この世の全ての存在は、刻一刻と変化しながら生(ライブ)演奏されてゆく“音楽”のようなものだ、と思っている。

もし、母なる星地球に、いやこの宇宙そのものに「大いなる意志」があるのだとすれば、それは、この宇宙に次々と多様な“音”を生み出しながら、止まることもなく変化する調和の“音楽”を奏で続けることではないだろうか。

調和の音楽を生み出すためには、その演奏に参加する全ての存在が、自分以外の存在が奏でる“音”に耳を澄まさなければならない。他の存在が奏でる“音”を聴くことに依って、今この一瞬に自分が奏でるべき“音”が生れ、その“音楽”が他の存在が奏でる“音楽”と響き合って、壮大で美しい調和の“音楽”が自ずと創造されてゆくのだ。

今、私達人間は、明らかに調和を乱す“不協和音”を奏でている。調和を求める宇宙の「大いなる意志」に依って、私達そのものが抹消されてしまうのか、それとも、新たな調和の音楽の創造に参加することができるのか、その選択は私達自身に委ねられている。 今こそ私達は、自分以外の存在が奏でる“音”を聴く“第三の耳”を開かなければならない。耳には聴えない“音楽”を聴く“想像力”を取り戻さなければならない。それが、第六番のテーマを「音」と定めた私の動機であった。 さっきまで私の指を握り締めていた娘が手を離した。 小さな足で思い切り蒲団を撥ね上げたかと思うと、体をグルリと半回転させ、その足をドカンと私の顔の上に降ろした。 寝息は、相変らず続いていた。

「全ての存在は、時空を超えて響き合っている」 龍村仁

 

ケリー・ヨスト

春まだ浅い大草原の朝、

芽吹き始めた小さな草花の上に朝露が降り、

折しも昇り始めた陽光を浴びてキラキラと輝いている。

その朝露のひと滴(しずく)に目を寄せると、そこには眩いばかりの金色の光と共に、

あたりの大自然を映した小さな宇宙が淡い緑の光となって、

かすかに風に震えている。

光が音楽を奏で、音楽もまた光を発つことがわかる一瞬(ひととき)、

ケリー・ヨストのピアノは、そんな清冽な美しさに満ちている。


アメリカ、アイダホ州の小さな田舎町に生まれ育ち、幼い頃から大自然の山や川、森や湖との超越的な交感を何度も体験したケリー。 有名になることも、喝采を浴びることも求めず、ただひたすらピアノの中から“光の音”を紡ぎだすことに全霊を捧げてきたケリーの生き方が、 そのまま、優しさと気品にあふれたピアノ音楽となって私達のものとに届けられる。 撮影では、ケリーの魂の故郷、アイダホ州北部山岳地帯のレッドフィッシュ湖に向かって65年の人生を遡上する旅をした。 かつてこの湖には、毎夏、1500キロという世界一長い距離を遡上して数万匹の鮭達が還って来ていた。 <ケリー・ヨスト プロフィール> 1940年アメリカ・アイダホ州ボイシー生まれ。6歳よりピアノを始める。アイダホ大学では音楽と哲学を専攻。2000年『地球交響曲第四番』にフィールドの『ノクターンNo.1』が、2004年『地球交響曲第五番』ではバッハの『プレリュード第一番』とパッヘルベルの『カノン』が挿入曲として使われた。彼女の音楽の源泉である、アイダホの自然環境保護運動においても中心的な役割を果たしている。


ロジャー・ペイン

もう60年も昔、ニューヨーク、マンハッタンの高層ビル街を、上ばかりみて歩くひとりの少年がいました。

チェロを弾くその少年は、時折、空を横切るカモメを鷹であると信じ、

いつか自分も鷹になってこの谷間を飛び出し大自然の中を羽ばたきたいと夢見ていました。

少年は長じて世界的な海洋生物学者となり、ザトウクジラが歌を唄うことを世界で初めて発見し、

その歌声を惑星探査機ボイジャーに乗せて、まだ見ぬ宇宙人に向けて送り出したのです。


全ての鯨達は、人間と同等の深く複雑なシワの刻まれた大きな脳を持っています。 ということは、人間と同等の複雑な精神活動(人間の場合知性)ができることを意味しています。 しかし、彼らは、人間が“知性”に依って進歩させて来た“技術文明”は全く持っていません。 だとすれば彼らは、その高い“知的”能力を何に使っているのでしょうか。それが、鯨達に関する最大の謎であり、神秘です。 彼らは“音”で世界を見、“音”で世界を理解して生きている我々の仲間、哺乳動物です。 シロナガスクジラはわずか3頭いれば世界一周の交信ができます。シャチ、イルカは超音波を駆使して海の自然を克明に理解し、“音”で網をつくって魚を捕らえます。 そんな彼らが歌う“歌”があります。 その“歌”の構造は、人間がつくる“音楽”の構造に非常によく似ています。彼らはいったいなにを“歌”っているのでしょうか。 40年間、鯨の生態研究を続けて来たロジャー・ペイン博士がその謎に迫ります。 撮影はバーモント州の自宅とマサチューセッツ州ケープアンで行い、調査船オデッセイ号にも同乗してザトウクジラと遭遇しました。


<ロジャー・ペイン プロフィール> 1935年、ニューヨーク生まれ、ハーバード大卒、コーネル大で“音で世界を見る動物”コウモリやフクロウの研究で博士号を取得。1967年、初めてザトウ鯨と出会い、鯨と海の環境保護をすすめる団体、“Ocean Alliance”を設立。当時彼が出版したCD「ザトウクジラの唄」は、出版数1000万枚以上。調査船「オデッセイ号」に依る海洋調査航海は延べ100回を超える。2005年、5年間に渡るマッコウクジラの体内に蓄積するPCB汚染の調査を終え、間もなく結果を世界に公示する。



ラヴィ・シャンカール

かつて、あるアメリカの生物学者がこんな実験をしました。

全く同じ条件で育てられる三本の同種の植物に、それぞれ、ロック音楽、バッハの室内楽、ラヴィ・シャンカールのシタール演奏を聴かせ、その成長ぶりを観察したのです。

結果は驚くべきものでした。ロックには背を向け、バッハへは蔓を伸ばした植物が、

ラヴィ・シャンカールの音には圧倒的な反応を示し、スピーカーに巻きついてしまったのです。


バイオリンの名手、故ユーディ・メニューインは、ラヴィ・シャンカールのことを「20世紀最大の楽聖」と評しました。ビートルズの故ジョージ・ハリソンは、シャンカールの音楽に触れて深く目覚め、一介の弟子となって一年間の修行生活を行いました。 若くしてヨーロッパ文明の洗礼を受け、15才の時、インドに帰って、10年間、師に全てを捧げる苛酷な修行生活を送り、常にインド数千年の叡智に立ち還りながら、西洋近代文明との橋渡しを続けて来たラヴィ・シャンカール。2005年、84才になったラヴィ・シャンカールは、23才の娘アヌーシュカを伴ってワールドツアーを行い、  2日~3日に一回という苛酷なスケジュールをこなしながら、21世紀を生きる世界中の人々に、ナーダ・ブラフマー=世界は音なり、というインド音楽の神髄を伝え続けています。


<ラヴィ・シャンカール プロフィール> 1920年インド・ワーラーナシー生まれ。67年国連人権週間で、ユーディ・メニューインと共演。60年代、モントレー、ウッドストックなどのフェスティバルに出演。ニューエイジの若者達から圧倒的な支持をうける。74年からインド音楽の原点に回帰する運動を開始。以後、世界の音楽家、政治家、経済人とも交流を深める。



奈良 裕之(弓 スピリット・キャッチャー)

 撮影場所:釧路湿原

2006年3月9日、午前4時、釧路湿原キラコタン岬、気温マイナス13度。

奈良裕之が弓に弦を張ったとたん、それまで静寂に包まれていた湿原に、不思議な音が響き渡った。弓が歌い始めたのだ。凍てついた大気が解きほぐされ、風となって広大な湿原を吹き渡ってくる。その風が今張られたばかりの弦を震わせ、低いうなり音を上げている。

その音は、音というより、黄金の太陽が湿原を覆う白雪や霧氷に降り注いで砕け散り、光の粒子となって舞い踊る“光の音楽”にも聴えてくる。音は光であり、光もまた音である。

天空に向かって弓を捧げる奈良裕之の姿は、その大いなる光に向かって、畏怖と感謝の想いを捧げる祈りの姿だった。

かつて「弓」を発明した我々の先祖たちは、この、他の生命をいただくための道具のことを「スピリット・キャッチャー」と呼んだ。「魂を捕らえるもの」ということだろうか。

「弓」は、容易に他の動物達の生命をいただくための単なる道具ではないことを私達の祖先は知っていた。自分を生かしてくれる他の生命に呼びかけ、その魂に感謝する“祈り”の道具でもあったのだ。撮影は彼の生まれ故郷釧路湿原で行った。


弓が祈りを運ぶ

弓が虚空の音を聴く

虚空の音は風の中に秘んでいる



KNOB(ディジュリドゥ 天然空洞木)

 撮影場所:伊豆大島 三原山裏砂漠

ディジュリドウは、楽器というよりオーストラリアの先住民アボリジニの人々が、大地の精霊や大宇宙の神々と交感するために使う媒体(メディア)である。

実際の形は、長さ1m前後、直径10cm前後の細長い木の筒のようなものだ。アボリジニの人々は、中味を蟻に喰われて空洞になったユーカリの木を使ったそうだ。

その音がすごいのだ。まるで地の底から湧き上がってくるマグマの音、地震の際、最初に地中を渡ってくる超低周波のような音だ。私が連想したのは、水深400mの深海に響くザトウ鯨の歌、チベット仏教の僧達が唱える超低音のマントラだった。

このディジュリドウの音をどこで撮影すれば良いのか、最初に思いついたのは活火山の噴火口だ。火山活動こそ、誕生以来45億年間絶えることなく続いている地球(ガイア)の生きている証である。ディジュリドウは、その母なる大地の歌声と響き合うためにアボリジニの人々がつくった“楽器”である。


母なる地球の産道を風が吹き抜けてゆく

命は虚空の彼方から風に乗ってやって来る

命は虚空の彼方へ風に乗って去ってゆく

虚空、それは母なる地球の子宮



雲龍(笛)

 撮影場所:熊野 那智大滝

雲龍が求めているのは、たぶんたったひとつの音だろう。この世の全ての音を、この世に顕現させるために、雲龍は笛を吹いている。

第六番のテーマを「虚空の音」と定めたとき、それを映画の中でいかに顕現させるかは、最も難しい課題であった。映画はまさに見える世界、聴こえる世界の存在だからだ。雲龍には、あえて耳を聾するばかりの轟音渦巻く熊野・那智原生林の聖地、二の滝の前での奉上をお願いした。

この世に無限に存在する多種多様な音のひとつひとつを消し去っていったとき、最後に残るたったひとつの耳に聴こえる響(おと)。

雲龍の笛の音は、その響(おと)となって、虚空の音との間を橋渡ししてくれるに違いない、と直感したからだ。

撮影は、二日間。一日は全ての風景を覆い隠す霧の中で、もう一日は降り注ぐ陽光の下で行った。


見える象(カタチ)は消えてゆく

聴える音も消えてゆく

その時残る響(オト)がある

虚空の音はここにある




長屋 和哉(打楽器 

 撮影場所:熊野 ごとびき岩

「岩は石と化した音楽である」と言ったのは、ギリシャの賢人ピタゴラスである。

21世紀の量子物理学はそれが真実であることを証明しつつある。

しかし「岩の音楽」は私達の耳には直接聴えない。

ところが長屋和哉はその「音楽」を直接聴くことのできる人である。そんな人には、天の計らいとしての使命が課せられる。

だから長屋は「岩の音楽」を私達に分かち与えてくれるアーティストになった。彼の音楽の多くが岩から取り出された鉱物の楽器によって奏されるのはそのためだ。

新宮市神倉神社のごとびき岩の前に立った時、長屋ははっきりとこう言った。

「この岩はまるで地鳴りのような低い音を出しているんですよ。」

子供の頃彼は、そういう自分の能力を病気だと思っていた。しかし今はそうではない。

岩を構成する原子の波動と彼の身体を構成する原子の波動が共鳴増幅されて、彼の身体内で鳴り響いている。その波動を耳に聴こえる音にして我々の耳に届けてくれるのが

長屋和哉だ。


全ての存在は虚空の音を秘めている

 


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